蕎麦の逸話


日本人に古くから愛されていたお蕎麦。

逸話の中で語られていることから、

生活の一部であったことが伺えます。

そんな蕎麦にまつわる逸話をまとめました。




  蕎麦喰木像


浄土真宗の開祖、親鸞上人はそばと縁が深いお方。

親鸞がまだ「範宴(はんえん)」と呼ばれた比叡山での

修行時代、仏心を得ようと都の六角堂へ

百日参籠(さんろう)を決意する。

夜山を下り明け方帰るその修行は、

いつしか「範宴の朝帰り」と噂される。

和尚はその真相を確かめるべく、ある夜抜き打ちで

皆を集め一人一人の名を呼び、そして「範宴っ」と

呼んだとき「はい」と声が・・・。

和尚はその声に一安心、その後皆にそばがふるまわれた。

ところが翌朝範宴の朝帰りが発覚、では昨日の輩は?

そこで見つかったのが範宴の彫った彼そっくりの木像、

口には夕べのそばの青ねぎが・・・。

この「蕎麦喰木像」は今も京都の法住寺に現存する。



  そばの赤すね


そばの茎は秋に向かい赤色の濃さが増す。

今日ほど様々な色が巷に溢れていなかった時代、

人々はこの赤色に神秘さを感じ、全国に赤い茎に

まつわる伝説が数多く生まれた。

その中の一つ、宮崎地方のお話・・・

昔「むぎ」と「そば」の姉妹がおった。冬の寒い日、

老婆が「川を背負って渡してくれ」と頼んだが

「むぎ」は断り「そば」一人で渡したそうな。

「そば」の足は冷たい水で真っ赤になり今も茎が赤いんじゃ。

これを見た神様は「そば」を夏の太陽ですくすく育つように

してくれたが「むぎ」は冬に踏まれるものにしてしまったとさ。



  討ち入り蕎麦


忠臣蔵の赤穂浪士大石良雄らが討入りの前に

そばを食べたといわれている。

元禄十五年(一七〇二)十二月十五日に吉良義央

(きらよしなか)を討って首尾よく本懐をとげたが、

その前夜、そば屋楠屋十兵衛またはうどん屋九兵衛の

二階で勢揃いし、縁起を祝って手打ちそばやうどんを食べた

ということになっている。

これにちなみ、十四日の義士祭にはそば供養を

行なうしきたりがある。

しかし、どうやら真説は、本所林町五丁目の堀部安兵衛宅、

本所三ツ目横町の杉野十平次宅、本所二ツ目相生町

三丁目の前原伊助・神崎与五郎宅の三カ所に

集合したのが正しいようだ。『寺坂信行筆記』によると、

両国矢ノ倉米沢町にある堀部弥兵衛宅で饗応を

受けたあと、吉田忠左衛門、同沢右衛門、原惣右衛門ら

六、七人はまだ時間が早いため、両国橋向川岸町の

茶屋亀田屋に立ち寄り、そば切りなど申しつけ、

ゆるゆると休息した。そして八ツ時(午前二時)前に

安兵衛宅へ集まった、とある。

これが巷説の背景となったようだ。




うどんそば 化物大江山


化物大江山は、当時の江戸では子供でも知っていた

という丹波国大江山の酒顛童子退治伝説を題材に、

擬人化したそば、うどんを主人公として異類合戦物に

仕立てたパロディーである。

源そばこに従う四天王は、碓井のだいこん(碓井貞光)、

卜部(うらべ)のかつおぶし(卜部季武)、渡辺のちんぴ

(渡辺網)、坂田のとうがらし(坂田公時)。

ちんぴは陳皮で、七味唐辛子の材料の一つ。

渡辺のちんぴが童子退治のために源そばこから

賜る名刀はそば切り包丁、退治に向かう途中で

守り神から授けられるのは「浅草の市にて買ひたる麺棒」。

この麺棒でうどん童子を叩きのめし、めでたく幕となる。

この時代にはうどんの人気から蕎麦の人気が

高まっていることが分かる物語である。