蕎麦の歴史


中国の雲南省で栽培が始まった蕎麦が、

日本に伝わり独自の進化を遂げました。

植物や蕎麦切りの歴史をまとめました。





@そばの伝播


 中国南部の山間地帯(雲南省)で栽培化された

 そばは、イスラム教徒の進出によって中世の時代に

 ヨーロッパにもたらされた。

 とくに小麦が栽培できない東欧の

 厳寒地帯に広まった。

 日本へのそばの伝播は、中国から朝鮮半島、

 対馬を経由して入ったと考えられている。


   




A日本のそばの歴史


 日本では縄文時代前期の北海道伊達市北黄金遺跡で、

 そば種子が出土した。

 科学的に同定されるのは、野尻湖湖底の試料の

 花粉分析結果で1500年前の野尻湖近くで

 農耕が行われており、そばを含めた栽培植物の

 花粉が大量に発掘されている。

 文献での初見は続日本紀(しょくにほんぎ)であり、

 養老六年(722)の不作に、第44代元正天皇が

 そばを栽培するよう詔(みことのり)を発せられている。

 その後、江戸に入るまで冷害、不作時の

 救荒作物以外の記述は無い。


   ← 出土した蕎麦の種子 



Bそば切り


 そば切りが記載されている最古の文献は

 常勝寺文章(番匠作事日記)で、

 天正二年(1574)に行われた仏殿の改修工事の

 際に「ソハキリ」が振舞われたという記述がある。

 そば切り発祥の地は定かではないが、

 甲州説と信濃説がある。

 甲州説の史料として江戸中期宝永七年(1710)の

 「塩尻」があり、信濃説の史料として

 宝永三年(1706)の「風俗文選」がある。


  ← 常勝寺文章


C江戸時代の蕎麦


 江戸に幕府が開かれた当時、

 江戸はうどんの町であった。

 うどんの方が好まれていた理由は諸説あるが、

 単純に蕎麦が美味しく無かったためであると

 考えられる。

 蕎麦の製粉技術が高く無く、十割蕎麦では

 細く長い蕎麦を打つことが出来ない。

 また、つなぎを入れ、茹でた後冷水で

 しめることは18世紀に入ってからのことで、

 もさもさとした蕎麦がうどんより好まれる

 ことは無かった。

 江戸の蕎麦屋の始まりとされる

 「けんどんそば切り」が遊郭・吉原に

 1664年(寛文4年)頃とされている。

 突っけんどんで、ぶっきらぼうだったので

 名づけられたと言われ、けんどんは蕎麦屋の

 異称となった。

 蕎麦切りが広がり始めた当初(寛永:1624〜)、

 「正直蕎麦」が評判となった。

 金龍山浅草寺境内の野天で営業をしていて

 価格は八文。

 値段が安く、量が多かったことから世間は

 正直蕎麦と呼んだという。

 元禄(1688〜)頃になると、朝鮮僧の元珍が小麦粉を

 つなぎに使う方法を南都東大寺に伝え、

 「二八蕎麦」が考案された。

 寛延(1748〜)に入ると「さらしな蕎麦」や

 「変わり蕎麦」の記述が出てくる。

← けんどんそば切り


D夜鷹蕎麦


 1657年(明暦3年)の大火で

 江戸は焼け野原となった。

 江戸府内のほぼ6割を消失した大火で、

 復興工事のため多くの人が流入した。

 そのため、外食の需要が高まり、

 夜中に屋台でそばを売り歩く夜そば売りが生まれた。

 夜蕎麦には逆二八も現れ、

 いわゆる夜鷹である。

 夜鷹とは、夜間に道端で客の袖を引いて

 売春した街娼のことである。

 蕎麦は当初皿に盛られ、汁をつけて

 食べられていたが、安直に食べる方法として

 冷かけが売り出され、それを「ぶっかけ」と称した。

 夜鷹蕎麦に対して、上等な風情のある蕎麦を特徴として

 屋台に風鈴をつけ、種物を売る風鈴蕎麦が現れたのが

 宝暦(1751〜)のころである。

 天保(1830〜)の頃になると夜鷹蕎麦も

 風鈴をつけるようになり、

 「夜鷹」と「風鈴」の区別がつかなくなった。


   ← 夜鷹蕎麦


E寺方蕎麦


 江戸時代にはそば打ち名人として名高い

 僧侶も登場し、檀家や庶民に蕎麦を

 ふるまう寺が増えた。

 僧侶が蕎麦を打つようになったのは、

 麺が外来文化であったためである。

 当時のお寺は、文化の最先端を知っている

 存在で、早くから麺類に親しんでいた。

 また、生臭いものを食べてはいけないという

 仏教の不殺生戒も寺方蕎麦が発達した

 要因である。

 江戸浅草柴崎町にあった称往院の

 支院・道光庵の蕎麦が寺方蕎麦として

 評判を得ていた。

 蕎麦目当ての人が押し寄せたため、

 親寺の称往院から蕎麦禁断を言い渡された。

 現代の屋号に‘庵’が多い理由は道光庵の

 人気にあやかったものである。


   ← 道光庵


F老舗蕎麦屋の三系統


 ・更科


  信州で布屋を商っていた布屋太兵衛

  (ぬのやたへい)が寛政元年(1789)、

  麻布永坂に看板を掲げたのが始まり。

  太兵衛はそば打ちの名人で、

  出入りしていた保科家から許された

  “科”の字を合わせて更科にした。

  更科が成功した理由は、蕎麦の実の中心部分

  だけを挽いた更科粉使用したこと。

  白く上品な歯ざわりと喉越しのよさは、

  それまでの黒っぽい蕎麦をおおっぴらに

  食べにくかった武士や大店の主人に珍重された。

    


 ・藪


  更科よりは黒い、田舎そばで人気を博した。

  江戸中期に雑司ヶ谷鬼子母神

  (ぞうしがやきしぼじん)の竹藪の中に

  あった百姓家の人気の蕎麦屋「爺が蕎麦」が

  その元祖といわれる。

  江戸末期に駒込団子坂に店を出して

  繁盛した蔦谷は、現在の藪系の元になった店で、

  地名が藪之内藪下であり、

  藪の中にあったから“藪”と愛称で呼ばれた。


    


 ・砂場


  砂場は大阪で誕生した。

  大阪城築城のとき、工事用の砂置き場

  周辺の蕎麦屋・和泉屋と津国屋が

  開業したことに由来する。

  しかし幕末には衰退し、

  寛永年間(1748〜1751)に

  江戸薬研堀(えどやけんぼり)に

  大阪砂場蕎麦が開店し、成功をおさめた。